関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。その人物像は不詳であるが、醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられ、琵琶の名器・無明を愛用していたといわれている。生没年も不詳ながら、旧暦の五月二十四日は「蝉丸忌」とされている。また、下社の祭神・豊玉姫命は、福を招き出世を約束する女神で、縁結び・安産・子孫繁栄の神として敬われている。なお、海神の娘である豊玉姫命は水霊信仰とも深く関係している。
社記によると、当社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁十三年(八二二)と伝えられている。小野岑守が旅人の守護神である猿田彦命を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社にお祀りしたのが始まりとされている。鎮座する逢坂山は京都と滋賀の境に当り、琵琶湖と京都・畿内を結ぶ交通の要所として栄えていた。この立地から、国境神・坂神・手向神(道祖神)、さらに逢坂の関の守護神としても崇敬されていた。また、京の都に悪病が流行らないように疫神祭が斎行されていたという。貞観十七年(八七六)には従五位下の神階が授けられ、六国史に記載がある国史見在社である。
平安時代中期になると、琵琶の名手で、後撰集の歌人でもある蝉丸が鎮座地の逢坂山に住むようになり、没後に上・下両社へ合祀された。合祀は天慶九年(九四六)とも平安時代末ともいわれている。その後、蝉丸伝承は時代と共に全国各地へ広まり、天禄二年(九七一)に綸旨が下賜されると、歌舞音曲の神として信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする諸芸に関係する人々の信仰が厚くなった。
江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、免許を受ける人々が全国的規模で増加した。昭和五年(一九三〇)には郷社に列格した。
蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人であった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。
蝉丸といえば、『小倉百人一首』のカルタに描かれる坊主姿が有名である。逢坂の庵より往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」という和歌を詠んだ(百人一首では 「行くも帰るも分かれては」 となっている)。蝉丸の和歌は、上記のものが『後撰和歌集』に収録されているほか、『新古今和歌集』『続古今和歌集』に収録されている三首を含め、計四首が勅撰和歌集に採録されている。
能の『蝉丸』(四番目物の狂女物)という曲や近松門左衛門作の人形浄瑠璃の『蝉丸』も有名である。 |